ヨルダン - パレスチナ問題への入り口
Posted on 2008/08/26 , 10:06 by peaceboat
カテゴリー:ブラミ・ジーガンの地球レポート
キーワード: 62, brami, Jordan
008年6月8日
寄港地
アカバ、ヨルダン―パレスチナ問題への入り口
「毎年、僕たちがどのような生活をしているのかを見学しに、世界中から多くの人が訪れる。
みんな僕たちの苦しい生活の現状を目の当たりにして心を痛め、何かできることはないかと言う。
でもその後その人たちがどんな手を差し伸べてくれたと思う?
ただの一度も助けなんてなかったよ」
バカア難民キャンプに住む19歳の少年の言葉だ。
怒りと、やるせなさと、悲しみに内震えていた。
それは彼が、自分たちの祖先のパレスチナ人が故郷を巡って経験した
血みどろで残酷な戦いに思いを馳せた時に、ふいに出て来た言葉だった。
バカア難民キャンプは、ヨルダン・ハシミテ王国内にある14万人以上の難民が住む場所。
ヨルダン国内には公式に10のパレスチナ難民キャンプがある。
ヨルダンでは、1948年と1967年のアラブ・イスラエル戦争(中東戦争)以来、
32万人以上のパレスチナ人が難民として暮らしている。
ヨルダンはパレスチナ人に市民権を与えている唯一の国でもある。

ヨルダンは、壮大な山々や褐色の砂漠、アラビアのロレンスが広く世界に知られている国。
難民キャンプの運営と安全管理は、ヨルダン政府内のパレスチナ関連局(DPA)の管轄下にある。
国連難民救済事業機関(UNRWA)や国際社会からの支援があるとは言っても、
数千人単位の難民の必要や不満に充分に対応していくためには、資金があまりにも足りていない。
ピースボートは、この難民が置かれている問題と現状について理解を深めるために、
この中東最大のバカア難民キャンプを訪れた。

元々はテントが広がっていたバカア難民キャンプは、今や商店や学校や各種サービスが利用可能な小都市となった。
キャンプ内で、参加者は5つのグループに分かれた。
障害者支援センターへの訪問、子供たちとのスポーツ交流、
子供文化センターに描く壁画プロジェクト、女性センター訪問、そしてパレスチナ難民の若者とのディスカッションだ。

少年の家族は、何も持たずに故郷を後にした。いつかこの地に帰って来る、という希望だけは捨てずに
ディスカッションに参加したパレスチナ人は、
すべて大学生で年齢は19、20歳の若者たち。
11人の若者は、それぞれの視点からピースボート参加者に向けて自分の体験や将来への夢を語った。
コンクリートの瓦礫のブロックに囲まれた家で
6、7人の兄妹と共同で生活をする彼らが話してくれたのは、
一向にうまくいかないパレスチナ・イスラエルの和平交渉や、
ヨルダン政府との社会保障やインフラ整備の改善を巡る苦闘への失望の気持ちだった。
こうした絶望の状況にも関わらず、ひとつだけ彼らが未来に対して肯定的でいられることがあった。
それは、自分たちの「勝利」についてだ。
若者の一人、19歳のオマールは「もちろん僕は勝利を信じている。ここに住む僕たちや、
他のアラブ人やイスラム教徒もいつかパレスチナ人が必ずあの地に戻るはずと考えているんだ」と言った。

ピースボートの水先案内人でアーティストの森部英司さんは、地元の人々と共に双葉の壁画を描いた。
パレスチナはいつの日か自分のものとなり、その日が訪れれば間違いなく土地に帰還することができる。
自信と確信を持って彼らは言う。
「もし武力による戦闘が目的を達成する唯一の道であるならば、
それを支持することを僕たちは厭わない。僕たちはテロリストなんかじゃないし、
戦争なんて好きなはずがない。
でも、もし戦争がどうしても必要であるならば、僕たちは戦争に行くよ。
60年間和平交渉を行って来て、実際には何も達成されて来なかったんだから」
参加者の多くにとって衝撃的だったのは、
若者たちがイスラエルに対する憎しみを根深く持っていたこと。
イスラエル人に会ったことがないにも関わらず、
彼らはむき出しにした怒りの中に相手との妥協を一切認めなかった。
誰もイスラエルとの共存を望んでいなかった。

UNRWA(国連難民救済事業機関)によって運営される女性センターでは、裁縫技術などを女性に教えている。
議論が深まるにつれ、ピースボートの参加者は、
こうした発言はイスラエルの手によって為された死や拷問、
立ち退きを直接経験した世代から伝わってきた見方なのだということを知った。
第1世代の人たちは、自分のもといた場所が戦闘に巻き込まれ、
自分の財産や友達や家族を置き去りにして逃げ歩いた。
安全な国を求め、食べ物も水もない中で何日もさまよった。
彼らは、尊厳を失い、怒りに心頭し、侮辱された人たちだった。

参加者は難民が住むキャンプ内の実際の住居を訪れ、実際にその不毛でみすぼらしい空間を目の当たりにした。
コンクリートの壁とワイヤーフェンスに囲まれて育った難民の若者たちは、
年長の人々による血塗れ(ちまみれ)の苦闘の物語やイメージを、
新聞やテレビを唯一の情報源として学んだ。
キャンプの学校ではイスラエルによる占領の実態を教えられることはなかった。
匿名を条件に取材に応えてくれたある女子学生は、
国際社会が歴史の教科書からパレスチナ人の歴史を削除するように
具体的に働きかけたのではないか、と考えている。
彼女の学生時代、パレスチナ人の先生は教室のドアを固く閉ざし、
大きな危険を犯しながら自分たちの歴史を語ってくれた。

ピースボートのGETプログラムでは、キャンプ内の子供センターの子供たちに100冊の児童書を送った。
バカア難民キャンプを訪れ私たちが見たものは、
1917年のバルフォア宣言に端を発する土地の奪還運動から続いて来た暴力の系譜の一部にすぎない。
しかし多くの参加者にとっては、この難民キャンプに行ったことは生涯に残る体験となった。
戦争と平和の複雑な現実が、
パレスチナ人に対して今でも続く終わらない苦しみと迫害を通してあらわになった。
日本という「戦争を放棄した国」に育った人々にとって、
若者が武器を持って闘うという考え方を理解し受け止めることは容易ではない。
しかし、これが世界の多くの場所における無視できない現実でもあるのだ。
参加者は難民キャンプを後にし、死海を横目に日没時のパレスチナを眺めながら、
ちょうど今目撃してきたある世界の現実について、考えを巡らし続けていた。
自分たちが、この憎しみを優しさに、苦しみを正義に変えるために、何をなし得るのだろうか、について。

イベントの最後は、アラブスタイルのダンスとピースボート側からの9条ダンスで締めくくられた。
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